立ちて思ひ居てもそ思ふくれなゐの赤裳裾引き去にし姿を 作者不詳歌
立ちて思ひ居てもそ思ふくれなゐの赤裳裾引き去にし姿を 作者不詳歌 (二五五〇)
訳)立っては思い
座っては思います
くれないの
赤い裳の裾をひいて
去っていったあなたの姿を
○『万葉集』巻十一、正述心緒。男が、赤い裳の裾をひいて遠ざかってゆく女性のすがたをわすれられず煩悶している、といううた。「裳」は、当時のスカート状の衣服。むずかしい表現はなく、くっきりとわかりやすい情景でありながらも、その余韻のうつくしさは比類がない。これは何によるのだろう。
まず、ピントが相手の服装にあてられていることで、その赤い色と裾をひく動作がなによりも女性のたおやかさ、優美さを描けている。余計な情緒の表現をくわえずに客観的な描写をもって恋慕をあらわしている。ここに「愛しきやし」みたいなことばが混じっていたら一首は柔弱なものになり魅力は半減するだろう。
また時間がすでに経過していて、その女性のすがたが男の回想のなかにあることをしるとき、わたしたちは女性の描写でおわったこのうたをふたたび悶えている男のすがたに引きもどして味わう。このとき、うたは時間・空間とともにひろがりをもつので、逢瀬のときの生々しさや高揚感、そしてわかれの痛切なおもいなどはいちど冷却されて、客観的になものになる。それが、このうたを読んだときの余韻の風とおしのよさにもつながっているのだろう。
ひとつ気になるのはこの男女の関係性だ。
まず、女性が去ってゆくという点にひっかかる。当時の妻問婚をかんがえると、男が女性をたずね夜明けになると去るのがふつうだ。だから、遠ざかるのは男のはずではないか。この線で、すなわち男女がすでに関係を結んでいるとして解釈してみると、まず男は逢瀬を遂げたあと女と別れなければならない。女は戸を出て男を見おくるか、あるいは家の中ですこし移動して見おくる。男は去りつつもふりかえり、女を見る。女も、名残おしく男を見ながらもやがて赤裳をひいて家のなかにもどる。それが男が女を見たさいごのすがただった、といった具合になるだろうか。こう解釈すれば、女の去った距離はずいぶん短いことになる。このとき「去る」ということばは適切だろうか。そこがすこし疑問に残る。逆に、女が男の家をたずね、やがて女が帰っていったのを男がながめていた、と解するのも想像しづらい。
つぎに、ふたりは関係をもっていなかったと解釈してみたらどうだろうか。このうたでは、男女の距離感はそこまで親密にかかれていない。むしろ、とどかぬ女性にあこがれている節さえ感じられる。
思ひにし余りにしかばすべをなみ出でてそ行きしその門を見に (二五五一)
(おもいあまってどうしようもないので、とびだして見に行ってしまった、あなたの家の門を見に)
これは、今回のうたのつぎに並ぶうただが、いっぽうがうだうだと物思いをしているのと対照的に、こちらでは積極的な男のすがたが描かれている。そして、これは両者の男の性格のちがいもあるのかもしれないが、それよりも男女の関係の差といえるのではないか。後者では、男女の関係は近しいものとおもわれる。すくなくとも家のちかくにすぐ行けるくらいには近い関係といえよう。
で、今回のうたをとどかぬ高貴な女性を思慕するうたと解釈すれば、かいま見したのか、偶然目にしたのか、ちらっとのぞき見たときのそのひとのうつくしさ、優美な服装、そしてその去りすがたがずっと忘れられず、かといってすぐに会えるわけでもなく、男は煩悶しつづけている、とでもなろうか。
補足としてくわえると、「赤裳」という語は巫女を連想させる。アカという色は、「霊的なものの憑依したことを示す色、あるいはその霊威の発動している状態を示す色としても理解されていた」という。(『万葉語誌』18頁、多田一臣編、筑摩書房)それに、「裳」にもそうした霊威をやどす場として意識されていたという。(同書、375頁)
嗚呼見の浦に船のりすらむ娘子らが玉裳の裾に潮満つらむか 人麻呂 (四〇)
このうたの異伝では、「あみの浦」が「あごの浦」、そして「玉裳」が「赤裳」とされている(三六一〇)。ほかにも、赤裳を詠んだうたがいくつもある。
ますらをはみ狩に立たし娘子らは赤裳裾引く清き浜びを 山部赤人 (一〇〇一)
住吉の出見の浜の柴な刈りそね娘子らが赤裳の裾の濡れて行かむ見む 柿本人麻呂歌集 (一二七四)
(旋頭歌なので、577577とよむ)
山吹のにほへる妹がはねず色の赤裳の姿夢に見えつつ 作者不詳 (二七八六)
(はねず色は、赤い色)
我妹子が赤裳ひづちて植ゑし田を刈りて収めむ倉無の浜 柿本人麻呂 (一七一〇)
河内の大橋を独り去く娘子を見し歌一首
しなてる 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣着て ただひとり い渡らす児は 若草の 夫かあるらむ 橿の実の ひとりか寝らむ 問はまくの 欲しき我妹が 家の知らなく 作者不詳 (一七四二)
反歌
大橋の頭に家あらばまかなしくひとり行く児に宿貸さましを (一七四三)
赤裳は、たしかに官女や巫女の着る衣装だったかもしれないが、それだけではうたの解釈を決定づけることはできないかもしれない。
どの解釈がただしいのだろう。オーソドックスに逢い引きの別れを回想しているのか、それとも身分違い恋をなげいてるのか。ぼくとしては、後者に気持ちは寄っている。いずれにしても、想像をかきたてるうつくしい余白がこのうたにはある。余計な穿鑿をしたあとは、すべての解釈をわすれてもういちど虚心でよみなおして素直に味わうのがいい。巻十一は、民謡集ともいうべき巻で、牧歌のような佳品がずらりとならんでいる。