里びたる犬のこゑにぞきこえつる竹よりおくの人の家居は 藤原定家
訳)田舎びた
犬のこえに
はっとした
この竹林のおくに
だれか住んでいるのか
○『拾遺愚草』閑居百首。また『玉葉和歌集』雑歌。ただし『玉葉』では第三句は「知られける」。
定家二十六歳の作。王朝和歌で犬が詠まれるのはめずらしい。絢爛たる作風の定家だが、このような小ざっぱりとした作もおおくありいずれも新味に富んでいる。
『源氏物語』の浮舟の巻に
宮(匂宮)は御馬にてすこし遠く立ちたまへるに、里びたる声したる犬どもの出で来てののしるもいと恐ろしく、人少なに、いとあやしき御歩きなれば、すずろならむ物の走り出で来たらむもいかさまにと、さぶらふかぎり心をぞまどはしける
とある。匂宮と浮舟が通じ合っていることに気がついた薫は、宇治の警固をつよめて連絡がとれないようにした。匂宮は浮舟からの手紙が途絶えたことを不審におもい、「むなしき空(そら)にみちぬる心地」がして急遽宇治へ向かう。ところが警戒がきびしく容易に会えない。引用はそのときの一節です。
新古今時代の歌人にとって『源氏物語』はバイブルのひとつで、新たな創造のための豊富な源泉だった。なかでも有名なのが、
春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲のそら 定家
でしょう。これも『源氏』の最後の巻である「夢の浮橋」の語をもちい、宇治十帖の悲恋を匂わせつつあらたな情趣をうみだしている。
しかし、今回の作に関していえば、物語の情緒をさらに深めるのではなく、逆に物語性が削ぎおとされ一首のうたとして独立しているところに興味をおぼえます。「春の夜の」では『源氏』の背景をしらないと一首の意味がわかりずらいのに対し、この歌はしらない人でもあじわえる。むしろそっちのほうがすっきりしている。むろん物語の内容を念頭にして、匂宮が浮舟に会えなくて焦慮しているすがたを思いうかべ、野性味ある犬の声におどろき、竹の奥にすむ田舎びとの目を警戒してるさまを想像し、よむこともできる。が、ぼく個人としては、背景の知識はほどほどにしてこの歌そのものの世界にはいりこんだほうがいいですね。山奥かしずかなところにさまよい、おもいもかけず犬の声がとおくからひびいてくる、こんなところにも人が住んでいたのかとしみじみするおもう、これくらいの解釈がちょうどいい。