漫想「時代」

 

最善の時代などなかった。これからも存在しないだろう。それでもわたしたちは現実の非情さから過去をふりかえっては嘆息し、理想をおもいうかべては追求しようとする。あのころはよかった、あの時代は人びとが活き活きとしていたと語るとき、そこには或る個人の主観的な好みが含まれていることを見のがしてはならない。延喜・天暦の治世が讃えられるとき、そこには現状に対する文学者の怨恨が滲んでいる。周王朝、古代ギリシア、パックス・ロマーナ、ルネサンス、疾風怒濤、いかなる栄光の時代といえどもそれはある特定の層にとっての栄光であり、全体の栄光ではない。むしろちいさな主観をかくすために時代という大げさなことばが選ばれるといったほうが正確だろう。このことばの伝染力はたいしたもので、「こんな時代」とだれかひとりが発するとなんとなくそんな気がしてきて、しらずしらず人びとは個人的な苦悩や不満の由来を時代に押しつけようとする。もしある時代を正確に捉えようとするならば、歴史、文化、道徳、思想、経済、政治、地理、気候、生活水準、風習、そういったものに知悉しさらにそれらは総合的に判断し、かつ想像力をはたらかせてその時代にわが身をおいてみて、無私公平な立場から現在の状況と比較し判定をくださねばなるまい。そんなこと誰ができるのだろうか。

時代という語は、物事を正確に観ることができず、また自己に深く沈潜することに耐えられない者にとっては格好のはけ口となる。「時代が悪いからわたしたちはこんな目にあっている。」それは幾分真実だろう。しかし、個人の主観から生まれたさまざまな感情を吟味もせずにすぐさま時代へ押しつける態度では、とうてい腫瘍は摘出できない。そうした態度はおちつきがなく攻撃的で、ちいさな正義の刃をふりまわしとどまるところをしらない。右翼だろうと左翼だろうとその立場は関係ない。いっぽうで、そうした行動的な人びとに対してまったく時代を気にしない人びともいる。かれらの世界は、じぶんとおよびその周辺のちいさな世界にとどまっている。じぶんが一票を投じたところで社会は変わるまい、それよりも自己のしあわせを追求するべきだ、と私(わたくし)の世界をなにより優先させる。無関心、無気力と非難されてもかれらはまったく気にならない。じぶんの生活がしあわせであれば十分であるから。そしておそろしいことに、このおおやけと私への態度が極端にわかれるときこのふたつが突如として一体化し猛威をふるう。二〇世紀の前半はそのような時代だった。

もちろんこれは極端なふたつの例だ。しかし極端だとはいえないのが現在の状況ではないだろうか。そこで仮に「よい時代とは」という問いに答えようとするとき、わたしは、このふたつの態度が或る個人および或る社会において適度に共存しているとき、というのが答えの手がかりになるのではないかとおもう。公と私の世界の円が重なりあい各々が関係をもち、刺激をあたえつつも致命的な打撃をくらわすことなく適切な距離感を保っている。個人としての幸福を享受しつつもけっして閉じこまらず、他人との交流をつづけながらその関わりが社会ともむすびついており、相互に影響を与え得る。公と私をむすぶような中間的な共同体が存在し機能しているとき、その時代はよいかはともかく不健康ではない。これは個人に関してもいえることで、ある天才に特異な精神昂揚がおこるとき、そこにはいまいったような共同体、すなわち「サロン」がかれのそばにあった。かれはそれを憎悪することがしばしばだったがそことの関わりを断絶しようとはせず、ときに近づきときに離れて、自己をまもりつつ人びとと交流し創作を披露した。ベートーヴェンでもショパンでも芭蕉でも世阿弥でも、伝記をよめばかれらのそばにはそうした共同体あったことがわかる。ただしこれは藝術における一例だ。かれらのような人物を例に出しても説得力がないというのなら、江戸時代が一ついいヒントになるのではないだろうか。それは政治の支配が決定的になった時代でありながら、民衆の生活が向上しさかえた時代でもあった。封建的な社会、鎖国的な社会とネガティブな側面を指摘することはもちろんたやすい。しかしそのことを差し引いても、江戸時代における社会と民衆のあり方は、日本のみならず世界の歴史をふりかえっても理想的なもののひとつの範例として挙げられるような気がする。偉人を輩出したかどうかではなく、政治の安定度、そしてごくふつうな庶民の生の実り具合とその範囲のひろさという観点においてである。

ともかくどの時代もこんな時代だ。最善な時代などないしこれからも存在しない。そのことわりを悟ってから議論し、熟考し、行動しなければならない。ところでいまはどんな時代なのだろうか。公と私があまりに分離した時代、といいかけてこれもわたしのちいさな主観から生まれたため息だと気がつく。上にあげた例もわたしの好みに基づくところが多すぎる。いまがどんな時代でもよい。じぶんが為し得ることを淡々と為すほかない。そしてじぶんの為し得ることを人びとが為さねばならぬことに近づけてゆき、たとえわずかでも世界市民として生きる道を模索しなければならない。時代をかえるといった大言壮語は口にせず、ピッケルでこつこつ叩いてゆくほかない。

 

 

 

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