筑波嶺の峰のもみぢ葉落ち積もり知るも知らぬもなべてかなしも  常陸歌

筑波嶺の峰のもみぢ葉落ち積もり知るも知らぬもなべてかなしも  常陸歌

訳)筑波山の

峰の紅葉が

落ちて、積もって

知る人も、知らぬ人も

すべてがいとおしい

◯『古今和歌集』巻二十、大歌所御歌。一〇九六。このうたは、前のうたとセットで問答のかたちをなしている。

「筑波嶺のこのもかのもに蔭はあれど君がみかげにますかげはなし」1095(つくばねのあちらこちらに木陰がありますが、君の御蔭にまさるものはありません)

主君の恩恵におよぶものはない、と述べるために筑波嶺が引き合いに出される。古今集の序にも、「ひろき御恵みの蔭、筑波嶺の麓よりも繁くおはしまして」と天皇を讃える箇所がある。前のものを臣下のうたとすれば、今回のはそれにたいする主君の返答といえよう。深く茂った青葉が紅葉し、やがて地にうづかさなってゆく。もう、民を覆いつくしていた蔭はなく、裸木同然のすがたとなった。それでもすべての人が愛しい、知っている者も、知らぬ者たちも、という。ここの「知る」は単に知っているという意だけでく、統治している、という意がつよい。

筑波山の歌垣で詠まれたうたかもしれない(『古今和歌集』高田祐彦訳註 角川ソフィア文庫)。もともと恋のうただったものが中央に伝わり、政治的な意味が付与されてゆく例は、中国の『詩経』のようによくあるといえる。とはいえ、政治くささを差し引いてもこのうたの魅力は失われない。上の句と下の句は、前のうたがなければ、いっけんどう繋がるのか捉えづらい。紅葉がみな散った、知るも知らぬも愛おしい、という呼吸は問答歌だからこそ成立する間といえよう。しかし、そうでなくとも味わい深い。美しい紅葉が散り果てて、凋落を感じるからこそすべてのひとが愛しくおもわれる。こう解釈すると、主君と臣下という上下の関係ではなく、キリストを思わせるような隣人愛のうたにかわる。さすがに穿ち過ぎだが、文脈を切り取って解釈をしてもその魅力が増すところにこのうたの良さがある。「も」を基調としたリズムのよさも魅力のひとつ。前の「このもかのも」のひびきと通じ合っていて、音楽面でも両者の交歓が感じられる。大歌所は、管弦など音楽とともにうたわれた和歌をあつめた所なので、音調も大切な要素だったに違いない。

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