夕ぐれは雲のはたてにものぞ思ふ天つ空なる人を恋ふとて 読み人しらず
夕ぐれは雲のはたてにものぞ思ふ天つ空なる人を恋ふとて 読み人しらず
訳)夕ぐれどき
雲の果てをみて
ものをおもう
はるかかなたの
人が恋しくて
○『古今和歌集』巻十一、恋一。四八四。「はたて」は、端っこ。『王台新詠』のなかの詩「蘭若春陽に生ず」に「美人雲端に在り 天路隔たりて期無し」という句があり、この「雲端」を翻訳したのが「雲のはたて」という説がある。「はたて」というのだから、うすく横にひろがる雲のことだろうか。そして、このうたの急所であり難所が「天つ空なる人」の解釈だ。ふつうに解釈すれば「手にとどかないような、身分の高いお方」と、とれる。一方、たとえば片桐洋一氏は、「うわの空になって」と詠み手の心情とする(『古今和歌集全評釈(中)』講談社)。例として、
「立ちてゐてたどきも知らず吾がこころ天つ空なり土は踏めども」 [万葉集]二八八七
をあげる。ほかに古今集では、
「我が恋はむなしき空に満ちぬらし思ひやれども行く方もなし」四八八
「大空は恋しき人の形見かは物思ふごとにながめらるらむ」七四二
など、遙か彼方に恋をかさねてながめてうたう例が挙げられる。そこで、この下の句も「わたしをうわの空にさせるあの人を恋い慕う」と解している。しかし、「天つ空なる人」をこのように解釈するのはいささか牽強付会の感も否めない。万葉のうたのように「天つ空なり」ならば、文が切れ、詠み手の心情と解せるが、この場合は「人」に掛かっているので、その相手に対して「天つ空なる」と形容しているとしたほうが妥当におもえる。わたしもここは通例どおり解釈したい。
また、「天つ空なる人」をたんに身分の高貴なひとではなく、プラトニックな、理想上の女性とする説も考えられる。或る詩人がこのように解するのをどこかで読んだことがある(たしか萩原朔太郎)。これも考えられなくもないが、西洋および近代的な解釈で、当時のひとがこうした発想をしていたかはあやしい。
このうたにはいろいろな推測を招くうつくしい余白がある。穿鑿はいったんやめて、ことばをそのままに味わおう。ゆうぐれどき、赤くうすくたなびく雲を端から端をゆっくりながめて、ためいきをつく。うつつかそれとも夢か、ある人が恋しくてならず、はるかかなたを仰いではその面影がおもわれる。その解釈だけで十分だ。悠久たる思慕にふれて、なにか崇高なこころもちにさせられる。