珠洲の海に朝開きして漕ぎ来れば長浜の浦の月照りにけり   大伴家持

珠洲すずの海に朝開あさびらきして漕ぎ来れば長浜ながはまの浦の月照りにけり   大伴家持

 

訳)珠洲の港を

早朝に出て

漕いでくると

長浜の浦にはもう

月が照っていた

 

◯『万葉集』巻十七。四〇二九。詞書「珠洲郡すずのこほりより船をおこして太沼郡おほぬまのこほりに還りし時に、長浜のみづのほとりに泊まりて月の光を仰ぎ見て作りし歌一首」。天平十八年(746年)に、家持は越中(現石川県)の国府に赴任する。この時期の家持は作家意欲が旺盛で、弟書持の死去や自身の病など不幸がつづいたが、それらもうたにして乗り越える。巻十七は、越中における家持の歌日誌のような巻で、ここにわたしたちは私的な和歌、のみならず私的な文学の登場をみる。それは、『土佐日記』をへて、女房の日記文学、ひいては近代の私小説にも連なる系譜の嚆矢ともいえる。もっとも家持は官僚として立派にはたらきながら書いてる点が異なるけれども。

「珠洲」は、能登半島の先端部の地。「朝びらき」は、早朝に船を出発させること。「長浜の浦」は、氷見にある松田江の長浜か。珠洲からは約70キロメートルほどの距離があり、当時の技術、潮の状況などを考慮すると、朝4時に出発して、夜8時には着く計算らしい。(『日本古典文学全集 万葉集四』小学館 黒川総三説より)家持は役人として、春の出挙の見まわりのためいくつかの郡を巡視していた。そのとき作ったうたの一首がこれ。

とくに解説もいらない。ただ一日の出発と到着を日記のように述べたうたである。しかし、小さな旅を終え、あたりが暗闇につつまれるなか、疲れた家持が見あげた月の光は、われわれにも親しげに澄んでみえる。さざなみが聞こえてくる気がする。

このうたと似た発想のうたに、能因法師の、

 

「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」

 

という有名なうたがある。こちらは、霞とともに春の都を出発したが、白河の関(現福島県)に着いたときには秋風が吹いていた、というのである。これもこれでいいうただが、ちと大袈裟なのは否めない(じっさいに能因は尋ねたこともあるらしいが)。現実に即した家持の単純なうたのほうがこころよく味わえる。

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