君待つと我が恋ひをれば我がやどの簾動かし秋の風吹く 額田王
君待つと我が恋ひをれば我がやどの簾動かし秋の風吹く 額田王
訳)あなたのおとずれを
恋しく待ちわびていると
わたしの家の
簾をうごかして
秋の風が吹き去ってゆきます
○『万葉集』巻四、四八八。また巻八、一六〇六にも。詞書「額田王の近江天皇を思ひて作りし歌一首」。額田王は、最初にあらわれた女性の宮廷歌人。天武天皇(大海人皇子)と関係をむすび十市皇女を生んだのち、兄の天智天皇(中大兄皇子)に娶られた。「近江天皇」はすなわち天智天皇のこと。寵愛が冷め、家のなかにひとり籠もるようになった。すると、簾が動いた。あの人が来たかと思うもつかの間、それは秋風が吹き動かしたのだった、という。このうたにはどこか大人の諦観が感じられる。感情をあらわす語が少ないからだろうか。簾が動いたときの刹那のときめき、その正体をしったときの淡い失望が簡潔に余情ぶかく描かれている。清冽なしらべとと甘美な恋ごころが渾然とした名歌。
なおこのうたには返歌がある。返したのは鏡王女。額田王の姉、もしくは舒明天皇の皇女とされる女性。
「風をだに恋ふるはともし風をだに来むとし待たば何か嘆かむ 鏡王女 四八九」
(風をさえ、恋しく思えるなんて羨しいこと、せめて風だけでも、来るだろうと待っているならば、
どうして嘆くことがありましょうか)
鏡王女もまた天智天皇に愛された。じぶんは風のおとずれさえも期待できない、とわが身の衰えを嘆くと同時に額田王をうらやむ。ここには、じぶんを下げて相手を励ます様子もみてとれる。この二首は、贈答歌(あるいは問答歌)のなかでもっとも気品にあふれた傑作といえよう。