醫師は安樂死を語れども逆光の自轉車屋の宙吊りの自轉車 塚本邦雄
醫師は安樂死を語れども逆光の自轉車屋の宙吊りの自轉車 塚本邦雄(1920〜2005)
◯歌集『綠色硏究』(1965)所収。苦しみながら生き永らえるのと、安らかに死におもむくのとどちらが正しい選択なのか。医師は安楽死について語っている。ある個人へ向けてか、あるいは普遍的な道徳の観点から語っているのかは定かではないが、その口吻からは肯定の意がほのめかされている。たしかにそれはひとつの正しい選択だろう。しかしそのときひとつの幻影が浮かぶ。自転車屋で宙吊りになっている自転車。そこに強烈な光がさして、レンズからは自転車とも判別できないようなひとつの異形の物体があらわれる。この光は西日だろう。光は物を照らす。しかし、せまいレンズから見る人と光のあいだに物がはさまれると逆光が生じ、見えざる物と化す。安楽死は光であり、安らかで美しいのかもしれない。しかし、そのなりの果てはこの自転車とかわりない。これは自転車を死体と捉えたときの解釈。
いっぽうで、このうたはこうともとれる。勇敢な者は宙吊りになった自転車のようだ。恥をさらされ、無視され、無用なものとして磔、それも逆さに磔られる。そんな状態になるなら死んだほうがよろしい、と医師を名のるだれかが勧める。それはじぶんのなかの弱い人格か、それとも大衆か。しかし英雄は屈しない。どんなに無様なすがたを晒そうと生きつづける覚悟を決める。光が彼をさす。彼は彼ならざるものへと変身する。指をさして見ていた者たちはその影におののく。彼らは笑う者から怯える者へ堕する。宙吊りになった自転車はまるでキリストのように、磔になってから新たな生を得て地上に黒い光を照らす。自転車は生きている。
塚本邦雄は、前回述べた岡井隆とならぶ現代短歌の革新者。美をこれほど貪婪にもとめた歌人はいない。そのうたは難解だが、いちど捕らわれると逃れられない魔の魅力がある。うたの解釈もむずかしく、今回のわたしのもひとつのサンプルに過ぎない。おのおのじかにぶつかって味わい解釈するほかない。