遊歩漫想 はじめに
わたしはこれをだれかにむけて書くのではない。わたしはわたしのために書く。わたしはなにかを主張するためには書かない。もちろん結果としてある主張を述べることもしばしばあるでしょうが、それはその主張をめざして書いたのではなく、いろいろ迂回していたらその主張にたまたま行き当たっただけです。主張するために主張することはもっとも苦手とするところです。
わたしはわたしのために書くというならば、なぜ日記や手帳の範囲にとどめておかないのか。わざわざ公衆にみせる必要はないではないか。それももっともな疑問です。しかし、わたしはわたしひとりで生きているのではなく、「人びと」という大きな磁場に関わらなければ生きてゆけない。物質においても精神においても完全に独立できるひとなどいない。もしできるというひとがいるならば、わたしはそのひとを神と名付けてさっさと天へ放り出します。わたしは、だれかのことばを聞かずにはいられない。わたしは、わたしのことばをだれかに投げかけずにはいられない。
古今、洋の東西を問わず多くの賢人が孤独を讃えてきた。このときわたしたちが注意しなければいけないのは、かれらは自分の話をきくだれかを目の前にしているのであって、けっして野山に隠れてひとりごとで説いているのではない、ということです。ひとと繋がりつつ孤独を説いているのだ。これは文章においても事情はおなじで、いくら隠遁して自由と孤独を謳歌した文をものそうとも、かれらはそれを読むであろう人びとのすがたを想定せずにはいられないし、また書いたものを印刷し普及させるためには他人と関わらずにはいられない。隠遁文学とされる徒然草や方丈記をのぞいても、たしかに世塵を避けることをよしとしている面はありますが、それにしても多くのひととの交流が目につく。むしろ人とまじわりつつもいかに孤独を守るか、という点に隠遁者たちの姿勢はある。陶淵明、モンテーニュ、ソロー、かれらもおなじく隠棲と称してもひととの関わりはありました。
近現代になって、孤独の様相が変化した。まず、むかしと異なって物質の面の向上によって、生活を維持するために他人と緊密な連携をとる必要がなくなった。街へゆけば、海のものも山のものも異国のものもすべてがそろっています。そして、物質面のみならず、精神面においておおきい変化をもたらしたのが、印刷技術の向上、テレビ・ラジオの誕生、そしてここ数十年によるインターネットの発達とスマートフォンの登場でしょう。ここにおいてわたしたちはいっせいにつながった。正確には、つながった気になっている。多様性と均一化が同時にはげしく進んでいる時代といえるでしょう。そのはざまに立ってわたしたちは途方に暮れている。そして、つながればつながるほど孤独が、それも不健全な孤独が深まってゆくのは現代にはさけられない皮肉な病です。わたしも病人のひとりです。ゆえにこれを書いている。
わたしはこれをだれかにむけて書くのではない。しかしそんなことは不可能だ。「だれ」というささいな語のなかに、無数の人間がひしめいているのが現代の特徴です。わたしは具体的な「だれ」にむけて書きたい。それはプライヴェートの顔見知ったひとにむけて書くという意味ではなく、或るひとりのひとにむけて書きたいということです。その或るひとりとは、わたしであり、あなたであり、そしてだれかである。もしわたしが信仰深かったら神とでもいうでしょうか。アウグスティヌスの『告白』は神に懺悔するかたちで書かれた。ただそんな高尚なことはとうてい書けそうにありませんから、どうかそこの所はお手柔らかに。二十八歳、男、そいつから洩れるあくびの単なる翻訳です。