おとろへし蠅の一つが力なく障子に這ひて日はしづかなり 伊藤左千夫
おとろへし蠅の一つが力なく障子に這ひて日はしづかなり 伊藤左千夫
◯わたしたちは知らずしらず生き物を差別している。犬をなでるのはほほえましいが、海鼠をなでれば異常とされる。このちがいはどうして生じるのか。虫においても、たとえば鈴虫やこおろぎはその鳴き声ゆえ風情として賞翫されるが、蠅やゴキブリは何世紀たってもおなじ位に辿りつけるとはおもえない。こうした無意識の差別は、けだし本能よりも習慣や文化に由る所が大きい。何千年ものあいだに受け継がれてきた感性が連綿として今につたわり、現在のわれわれを意識の下で支配している。秋の虫をあわれと感じるのは、われわれがみずからそう感じたからではなく、先人がそのあわれを発見し高らかに讃えたからである。そのことにわたしたちは気がつかない。
ぼんやりとした、そしてときに頑固な常識を引き剥がすのは詩人の役目のひとつである。そのものをそのもの自体としてながめ、主観的な夾雑物を取りのぞき、できうるかぎり自然を自然として在らしめる。そうすることで無意識に抱いていた偏見あるいは凝り固まっていた感性をほぐし、あらたな美そして真実を創造する。
自由に飛びまわれずもはや息絶え絶えの蠅を、歌人は冷徹に見ている。そこには、安易に犬をめでるよりも大きな愛がある。「日はしづかなり」、この語句によって、うたは或る一室の情景から飛びだして大きなひろがりをもち、悠久たる天地に生きるかそけき命がしずかに日に包まれている様をわれわれは見る。ありふれた日常の場面がなにか神々しくさえ感じられる。