優等生と呼ばれて長き年月をかっとばしたき一球がくる 俵万智
優等生と呼ばれて長き年月をかっとばしたき一球がくる 俵万智
○『チョコレート革命』所収。優等生は礼儀よく、品もあり、ひとに嫌われず、おおきな挫折もなく、なにごとでも90点を叩きだし、つつがなく暮らし、周囲から尊敬のまなざしを浴びつづけてきたようなひとだ。そしてそこに優等生の苦悩がある。たいていのことは努力すればこなせるが、時代を劃するような発見や創造にはあまり縁がないかもしれない。優等生はあんがいそのことを自覚していて、だからこそ、たとえば教室でいつも寝てばかりいるのらくらが突如絵において強烈な個性を発揮したり、あるいはしびれるような恋愛や青春を謳歌しているようなひとを見かけると、わが身が平凡におもえてくる。結局、コツコツやるほかないと言いきかせて器用に世を渡ってゆく。
そんな日常生活におもいもよらぬ亀裂が生じた。恋愛、仕事、友情、家族、いずれかはわからないが、いままでの生き方や考え方では対処できそうになく、またしたくない。むしろこれを機にあたらしい自分を生みだしたい。「かっとばしたき一球がくる」ということは、まだ行為を果たしていない。もしかするとバットを握ったまま見送るかもしれない。しかし日常はその連続である。「自分を変えたい」といった安い主張をするより、行為におよぶまでのゆれうごく心をじっと見つめるほうが生の弾力がある。「くる」の二字が効いていて、マウンドに立った運命ともいうべき存在が振りかぶって投球するまでのモーション、そして放られた球がじぶんに迫ってくるさまが、ふしぎな臨場感をともなって伝わってくる。「かっとばしたき」ということばも、前半の「優等生」と対照的につかわれていて爽快。
現代は、優等生であふれている時代なのかもしれない。「デクノボー」というのは、賢治のみならず、現在においてもなりたいとおもう理想像のひとつなのかもしれない。