風はやみ雲の一むら峰こえて山見えそむる夕立のあと 伏見院
風はやみ雲の一むら峰こえて山見えそむる夕立のあと 伏見院 四一三
訳)風がはやい
雲の一群が
峰を越えると
山容があらわになってゆく
夕立ち去ったこのながめよ
○『玉葉和歌集』巻三、夏。前書き「三十首歌人々にめされし時、遠夕立」。「かぜはやみ」は、「かぜがはやいので」。正岡子規にはじまる「写生」という理念は、アララギ派の活躍も相まって近代短歌における最大のスローガンとなった。生を写す、おのおの解釈の差はあったが、いずれも空想にふけらず主観を排して、現実のものをありのまま写しとるという点を基礎としていた。それは、ときに質朴剛健な名歌を生みだしたが、ややもするとなんの咸興もなく日常生活の些事を切りとるばかりで、安いカメラのシャッターに堕することもしばしばあった。
このうたには、近現代のひとにはうたい得ぬ柄のおおきさと線の太さがある。夕立がふりしきったあと、すさまじい風に押しながされ雲の一群が峰を越えすがたを消す。空にはほんのり青さがとりもどされてゆくと同時に、隠れていた山のすがたが朧ろにみえてくる。「風はやみ」のほかには、形容語も感情をあらわす表現もない。奇矯な語もなく、ただありふれた単語のみで成立している。これも写生のうたであろうか。ここにある景色はフィルムに固定されていない。ながれる雲ととどまる山、このふたつが動と静の対照をなしつつも、作者のおおきな眼によってひとつに活き活きと捉えられている。動きつつとどまり、とどまりつつ動く壮大な一首。