旅人の分くる夏野の草しげみ葉末に菅の小笠はづれて   西行

旅人の分くる夏野の草しげみ葉末はずゑすげ小笠をがさはづれて   西行

 

訳)旅人が
  分けてゆく夏の野原
  草が高く茂っているからか
  葉末に菅の小笠が浮かび上がって
  まるではずれているよう

 

 

○『山家集』上・夏。また「山家心中集」にも。『山家集』では、前書き「旅行草深と云ふ事を」。「山家心中集」では、「旅の道に草深しといふ事を」。

題詠だが、旅に生きた西行でないと詠めないうた。夏草が生い茂るなかをかき分けてゆくと、旅人のすがたは草にかくれてしまい、菅笠だけがうかんでみえる、という。「小笠はづれて」という表現がむずかしい。それまでわたしは文字どおりにとって、じっさいに笠が葉末にひっかかって取れてしまった、と解釈していた。このたび新日本古典文学全集『中世和歌集 鎌倉編』近藤潤一校注の「山家心中集」をみて、はずれているように見える、という解釈ができることをしった。両方の意にもとれる。

このオチにも似た下の句の表現は、落語のような野卑さ(落語はそこがいいのだけれど)はなく、王朝時代をおもわせるおっとりとした上品なおかしみがある。「はづれて」とつづきを予感させるのも、作品に余白ができて、旅人のあゆみが立体的に感じられる。「はづれぬ」と完了の助動詞「ぬ」におきかえてみると、滑稽感が全面にでてきておもむきがうすれると同時に動きもとまってしまう。するとやはり、じっさいに笠がとれたと解するよりも、笠だけが浮いてみえて草をかき分けてゆく、と解したほうがいいかもしれない。「葉末」という語も、笠が宙にに浮かんですすんでゆくにぴったりの表現だ。ともかく西行らしい型破りないいまわしといえる。

旅に苦労しながらも、ほほえむ西行のすがたがうかがわれる可憐な一首。

 

 

 

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