ござたつたと見ゆる目もとのおさかなはさては娘がやきくさつたか 弥次郎兵衛
〇『東海道中膝栗毛』「初編」より。ご存じ、弥次郎兵衛と喜多八の珍道中。ふたりの馬鹿話、遭遇する事件のおかしさが物語の眼目だが、その顛末を狂歌によって洒落のめしていることはあまり取りあげられない。もちろん、散文にたいしての狂歌の重みは―たとえば『源氏物語』とくらべると―そこまでない。出来もとびきりいいわけではない。しかし、無いとどこか物足りない。漬け物みたいな役割をになっているといえるでしょう。
東海道五十三次の三番目の宿駅の金川(神奈川)、その地にある高台にのぼると茶店が軒をならべている。海が一望でき安房上総までながめられる勝景の地である。そこにひとりの美しいむすめが客のよびこみをしている。
「おやすみなさいやァせ。あたつかな冷飯もございァす。煮たての肴のさめたのもございやァす。そばのふといのをあがりやァせ。うどんのおつきなのもございやァす。お休みなさいやァせ」
頓珍漢なむすめに誘われて、ふたりは店に入り、さかなをたのむ。
むすめ前だれで手をふきふき、しをやき(塩焼き)のあぢをあたため、てうし盃をもち出、
娘「これはおまちどふさまでございやした」
弥二「おめへの焼た鰺なら味かろう」
ところが弥次郎兵衛は魚が腐っていることに気がつく。そして、上述の狂歌が詠まれる。
弥次「北八見さつし。此さかなはちと、ござつた目もとだ」
○ござつたと見ゆる目もとのおさかなはさては娘がやきくさつたか
きた八是をきゝて、おなじくこじつける
○味そふに見ゆる娘に油断すなきやつが焼たるあぢのわるさに
まず一首目。「ござつた」は普通の状態でなくなること。ここでは腐るの意と、惚れるの意が掛けられている。惚れるのはもちろん娘。「やきくさたつか」の「やく」は、魚を焼くと、だますの意の「やく」が掛かっていて、「くさる」は腐ると、動詞の連用形について相手を動作をののしる「くさる(~しやがる)」が掛かっている。二首目。「きやつ(彼奴)」は、あいつ。「あぢ」は、「鰺」と「味」が掛かる。そして、ふたりは「彼是と興じて、爰を立出」てゆく。
たしかに日本人はまじめで寡黙で勤勉で陰気で融通が利かなくて社交性がなくてユーモアに欠けているかもしれない。しかし、江戸の文学および人間にふれたとき、胸を張ってちがうと言えるのがうれしい。
引用・参照『東海道中膝栗毛(上)』十返舎一九作、麻生磯次校注、岩波文庫。