たか山の峯ふみならす虎の子ののぼらむ道の末ぞはるけき 藤原定家
訳)高山の
峯をふみならして
虎の子が
のぼってゆくだろう、この道を。
その道の果てしなさよ
◯『拾遺愚草』所収。「十題百首」より。「十題百首」は、天部・地部・居処・草・木・鳥・獣・虫・神祇・釈教の十個の題をそれぞれ十首ずつ、計百首詠みあげたもの。詠進した相手は、前回同様、藤原良経である。
今回のうたは、獣のなかの一首。虎が和歌で詠まれるのはめずらしい。そもそも獣自体が詠まれないのでほかの作も異質な印象をうける。
霜ふかくおくるわかれの小車にあやなくつらき牛のおと哉
つかふるき狐の仮れる色よりもふかきまどひにそむる心よ
ほかに「兎」「猿」「荒熊」「羊」などが詠まれている。
「虎」ときたからには、中国を想像せずにはいられない。「たか山の峯」も、日本のなだらかな山稜ではなく、巍々として岩壁がむきだしているような中国の山々がおもい浮かぶ。そこに、力づよく地をふみならして駆けのぼってゆく一匹の虎がいる。その道はとだえることなくはるか先までつづいてゆく。
これもまた前回とおなじく寓意があり、今回は良経の出世を寿ぐ意がほのめかされているといえよう。「高山」は高官の職、「虎の子」はすなわち良経で、栄進を祝いそして祈る。しかし、後世のわれわれは、寓意を感じつつもとらわれすぎず、ことばを素直に読みとってあじわうのがいいだろう。このうたの躍動感、奇絶をほこる山峰、そこから見える浩々たる草原などがことばの節々から連想されて崇高な心もちにさせられる。個人的には、中島敦の『山月記』のイメージも重なってくる。
ひとつ文法の面からみると、「のぼらむ」の「む」がいい。「む」は推量の助動詞、訳すとすれば、「のぼってゆくだろう」となる。すると、まだ虎の子は頂上には至っておらず、道の途中をのぼっていることになる。これを「のぼれる」と完了の助動詞「り」に置き換えてみると、未来へのひろがりが失せるとともに虎の歩みが途端にのろく感じられる。「のぼらむ」と時間を固定しないことで、その間と未来への動きのイメージがいきいきとしてくる。
このうたが詠進されたのは建久二年(1191)十二月、良経はまだ二十代前半の若さであるからこそのこの表現である。しかし、そのことを差し引いても、一字のことばの重みを感じずにはいられない。薄紙一枚の差で詩歌全体のイメージが左右される。その微細さを嗅ぎわけ、これ以上ふさわしい言葉遣いはないというところまで神経をはりめぐらさせるのが歌人であり詩人であると、余計ながら考えてしまった。
引用・参照:『藤原定家全歌集(上)』久保田淳校訂・訳、ちくま学芸文庫。
