たちのぼり南のはてに雲はあれど照る日くまなきころの虚(おほぞら) 藤原定家
たちのぼり南のはてに雲はあれど照る日くまなきころの虚
訳)もくもく立ちのぼる雲、ああ
南のそらの果てに
雲が覆われている。しかし
地にはあますことなく陽が照りつけている
その夏の盛りの大空よ
◯『拾遺愚草』中、韻歌百廿八首和歌より。太陽は、月にくらべると詩歌の材になりにくい。まず、直接目によって見られないことに加え、あまりに普遍的であり且つ日常的であるため、沈思の対象となりづらいことが挙げられよう。太陽は王権の象徴となりやすい。日本でも、太陽といえば天照大御神で、皇威をしめす象徴とむすびつくので、古歌の世界では太陽を詠むときはどうしても天皇や権力者の恩光をたたえるものになってしまう。その点、月はじっくりながめることができ、夜にいだく孤愁とうまく和する。
じっさい、定家のこのうたもそのように読むことはできる。雲に覆われている状況にもかかわらず、天皇家の照らします光によってわたしたちは恵みを得ています、というように。この韻歌百廿八首も藤原良経家において詠まれているので、良経をたたえる意味合いもなくはないかもしれない。しかし、このうたにはそうした賀歌の臭味はきわめてすくない。純粋に、夏の大空を詠んだうたとしての鑑賞をゆるす柄の大きさがある。
下の句がいい。雲をものともしない太陽をうたったかとおもうと、さいごは「虚(おほぞら)」に焦点があたる。そのとき、読み手には太陽もひとつの背景となり、それをもつつむ広大な空のけしきが思いうかび、同時に夏のあつさと空の青さが伝わってくる。「たちのぼり」「南のはて」「照る日くまなき」「おほぞら」といったスケールの大きいことばを多用しつつも、一首のうちにうまく調和させて緊密に壮大なけしきを詠み込むのはさすが。月を詠んだ名歌は腐るほどあるが、太陽はそれほどない。だからこそ、このうたのすごさが際立つ。なお、「照る日くまなきころの」と句をまたがっているのも当時としてはめずらしい。
引用・参照:『藤原定家全歌集(上)』久保田淳校訂・訳、ちくま学芸文庫。