われに似たる一人の女不倫にて乳削ぎの刑に遭はざりしや古代に 中城ふみ子
『乳房喪失』(1954)所収。或るひとりの抱く苦しみは、厳密にみればそれ以前にも以後にもそれとおなじものは存在せず、そのひとの中にのみ存在する。おなじ出来事に遭遇したとしても、おのおの抱く感情の深さや色あいは異なる。それでは、その苦しみはそのひとの中に閉じこめられてしまい、外へひろがることなく死とともに消えてしまうのだろうか。これも、厳密にいえばそれが正しいだろう。そこでわたしたちは、自分自身のみにある感情や経験に似ているものを周囲にもとめ、いくらか似ていることに慰められ孤立をのがれようとする。ここでも完全に他者を理解することなど不可能で、せいぜい「わかった気になる」のが精一杯で、そのなかでの深浅によってわかった、わからないの区別がつけられる。
自分に似ているものを外の世界でさがしてみると、おもいのほか見つかるものである。そして「わたしもそうだ」とおのおのが声をあげ、その数がふえてゆくにつれて個人の顔はうすれてゆき、ひとつの大きな集合体ができあがる。これを「共感」というのだろう。その空間的なひろがりかたは凄まじくアメーバのように増殖してゆくが、いざ底をのぞいてみると浅い。「共感」による理解は横へのみひろがってゆくので、あることがらを知ったり共有するきっかけには役立つが、その根源にさかのぼるにはむしろ「共感」は妨げになる。ほどほどの苦しみや悲しみをいくらつぎあわせても、ひとりのもつおどろおどろしさには敵わない。ひとりを知るより一億人を知るほうが易く、ひとりに知られるより一億人に知られるほうが軽い。だから「共感」にふれるほうがラクで心地よいので、たいていの人はこちらを選ぶ。「共感」はなにより自分や他人を真剣にみつめる労苦を必要としないので、ぼんやりとした感情をたよりにおおくの仲間を見つけることができる。
中城ふみ子は、離婚したあと乳癌に侵され、左乳房を切断した。壮絶な経験によって中城の歌才が奔出したというより、もともとの素質に経験が手助けしたとみるほうが適切だろう。中城は「一人の女」をもとめざるを得ないほど絶望している。それも同時代ではなく「古代」にまでさかのぼらなければ止みがたい衝動におそわれている。それは中城自身の性格ゆえでもあり、経験の凄惨さゆえでもあり、なによりおのれの生を誠実に生きようとするつよい意志ゆえであろう。このうたは、共感できるなどと口が裂けてもいえるものでなく、ひとりの生の凄みに読む者は黙すほかない。
担はれて手術室出づその時よりみづみづ尖る乳首を妬む
出奔せし夫が住むといふ四国目とづれば不思議に美しき島よ
昼の陽に樹皮を氷らせ裸木らも堪へて立つゆゑ我は生きたし
みづからを虐ぐる日は声に唱ふ乳房なき女の乾物はいかゝ゛?
失ひしわれの乳房に似し丘あり冬は枯れたる花が飾らむ