いたづらに身をぞ捨てつる人を思ふ心や深き谷となるらん 和泉式部
いたづらに身をぞ捨てつる人を思ふ心や深き谷となるらん 和泉式部
訳)いたづらに
わが身を捨ててしまった。
人を恋慕する
この心こそが深い
谷となるのだろうか
『和泉式部集』上、恋。和泉式部は平安中期の女性歌人。
このうたは文法的にふたつの読み方ができる。ひとつは、「いたづらに身をぞ捨てつる」「人を思ふ心や深き谷となるらん」と二句目で切る読み方。もうひとつは、「いたづらに身をぞ捨てつる人を思ふ」「心や深き谷となるらん」と三句目で切る読み方。文法としてはどちらもまちがっていない。完了の助動詞「つ」が、そのまま切れるか、「人」に掛かるかの違い。
後者でとると、作者が第三者の立場にいて、恋に苦悩して身をすてたひとを思っている内容となる。これが歌僧や男性の貴族のうただったら、優劣はともかくこの解釈もあり得る。しかし和泉式部のうたと考えるとき、どうしても前者のほうがふさわしい。後者のうたはあまりに他人行儀すぎる。
このうたには本歌がある。
一〇六一 世の中の憂きたびごとに身を投げば深き谷こそ浅くなりなめ
『古今集』雑体・よみ人しらず
といううたがそれで、「世の中が憂わしくなるたびに身を投げ捨てれば、ひとのからだで埋まっていって、深い谷も浅くなってしまうだろう」というのだ。「世の中」という語は、男女の仲らいと捉えることが王朝文学では多いが、『古今集』でこのうたのつづきをみると、
一〇六二 世の中はいかにくるしと思ふらんここらの人に恨みらるれば 在原もとかた (「世の中」はどれほどくるしいと思っているのだろうか。たくさんのひとに恨まれているので。「世の中」を擬人化している)
一〇六三 何をして身のいたづらに老いぬらん年の思はん事ぞやさしき よみ人知らず (何をしてわが身はいつのまにか老いていたのだろう。「年」が何をおもっているのかと考えると、恥ずかしく、情けない。「年」を擬人化している。「やさし」は恥ずかしいの意。)
一〇六四 身は捨てつ心をだにもはふらさじつひにはいかがなると知るべく おきかぜ (身は捨ててしまった。心だけは見放すまい。ついにはどうなってゆくのか知るためにも。「はふる」は放る、見捨てる)
と、老いや厭世的なうたがつづいているので、「現世」や「この世」の意で解釈したい。さらに、このうたは「俳諧歌」に属しているのがひとつ特殊で、身を投げることを悲愴なことではなく、「そんなに投身自殺したら、深い谷がひとでいっぱいになって浅くなっちゃうよ」と滑稽にうたっているのが幾分グロテスクでもある。このうたからは、切実になやむ女性ではなく、どうも老獪な男の作者がうかんでくる。
で、和泉式部にもどろう。和泉はこの本歌を、身を投げ捨てる当人側の目線に立ち、それも恋のうたとしてうたいあげた。しかも「人を思ふ心」を「深き谷」として象徴させたことで、うたの格がぐっと高まっている。ひとを思わずにいられない和泉は、その深い谷へ身を投げずにはいられない。恋の道に迷わずにはいられない。心にはあらがえない身の弱さをどうすることもできず、そこの機微を「いたづらに」という語がぴったり言いあらわしている。
「うかれ女」とよばれ、はげしい恋愛をいくども経験した和泉式部の心は、たしかになみはずれて深い谷のようだったのだろう。何度やぶれても恋に身を投じてきた和泉の心の谷はけっして浅くなることはなく、その深さゆえに生みだされたうたの数々は群を抜いて光彩をはなっている。