花散りし庭の木の葉も茂りあひて天照る月のかげぞまれなる 曾禰好忠
花散りし庭の木の葉も茂りあひて天照る月のかげぞまれなる 曾禰好忠(生没年不詳。一〇〇三年生存)
訳)花の散った
庭の木の葉も
こんもりと茂ったので
空たかくから照る月の
光もまれにしかささない
◯『新古今和歌集』巻三夏、また『定家八代集』にも。とくに奇異なことをうたっていない。花の散った庭の木にあおあおと木の葉が生い茂り、そのせいでまれにしか月のひかりがさしてこない、というのである。カゲは、光の意。
このようなおっとりとした表現は、平凡たる水こそがもっとも渇を癒すように、あまりにすんなり心にしみる。とくに絢爛たる『新古今』のなかにあるので、ほっと息をつくことができる。コーラのような詩歌がふえてゆくなか、こういった古風なうたは貴重な手本のひとつといえよう。
この作者は、奇矯な表現によって同時代の歌人に遠ざけられるような人物だったが、このうたはわかりやすい。「夏」ということばを用いず、夏らしさを感じさせるのはむずかしい。夜のすずしさがおのずから感じられるのもふしぎだ。このうたには、感情を示す語も、状態をあらわす形容詞もない。さいごの「月のかげぞまれなる」がうたの眼目だが、それとてただ月のひかりがさしてこないと淡く述べるにとどまる。だがそれゆえに、月の光がさしてこないことへの怨み言ではなく、夏の夜のくらやみをほのかにたたえていることばとしてに読み手には感じられる。
『新古今』では、このうたのつぎに同作者の
一八七 かりに来と恨みし人の絶えにしを草葉につけてしのぶ頃かな
(訳:ほんのときどき伺うよといった恨めしいあの人、そんな彼のおとずれもすっかり絶えた。茂る草葉をみるとむかしが偲ばれる)男を待つ女目線のうた。
といううたがならぶ。このとき、表題のうたは男のおとずれをまちつづける女のうた、というあらたな視点が加わる。おそらくこれは作者の意図ではなく、編者のたくみな配列によって生じたものであろう。一首を独立して読んでもいいし、二首をつなげてよんでそこに恋の情趣をふくませてもよい。ぼく自身、その両方をあじわっている。ただこのうたの配列の妙をみると、編集者というのがただできあがったものを並べるだけの役割ではない、ということがうかがわれて面白い。