三日続きの雨のじめじめじりじりとせり上り来る怒りに答えよ 佐佐木幸綱

〇歌集『直立せよ一行の詩』所収。氏は、古典の技法を洒脱につかいこなす名人だ。

 

金雀枝えにしだの花の盛りの黄金おうごん枝垂しだれながれて今日の疲れよ     『直立せよ一行の詩』

 

砂時計買い来つ砂の落ちざまのいさぎよき友飲み明かさんよ    『直立せよ一行の詩』

これらは序詞をたくみに用い、現代にかなったあたらしい抒情を生みだしている。エニシダの暗みのある黄金の枝がだらんとしなだれ、はたらいてくたびれた男のすがたと重なりあって読む者に香気を感じさせる。砂時計の砂は抵抗せずもさからいもせず、迷いもせずすがすがしく落ちてゆく、そんな男の友よ、今夜はともに飲み明かそう。これら二首には、意味としてのことばを超えて、イメージあるいは象徴として昇華されたことばがある。

今回のうたもそうだ。梅雨どきのうっとおしさをうたったかとおもうと、三句目の「じりじり」からいつのまにか作者の内面へと対象がうつってゆく。いっきにこみあげてくるのではなく、なんとも名状しがたいいらだちがふつふつと湧いてくる、おれはその怒りから目をそらすまい、立ち向かえ、と自分に言いきかせる。

はじめは外景だった「三日続きの雨」が、グラデーションのようにひとりの男の内部にとけてゆく。現実の情景が、怒りのイメージへと収斂してゆく。「じめじめ」から「じりじり」への転調がみごとで、さいごまで読んだときにはじめて一首が統一されるふしぎな陶酔感をあじわう。オノマトペのもつ細やかさとたのしさもこのうたの魅力だ。

このうたを読んで思いおこすのは、百人一首でおなじみの

あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む   柿本人麻呂

だ。技巧的にもにている。人麻呂のは、ながい夜をひとりさみしく寝るのかと女々しくつぶやくうただが、氏のはかっと目を見開いておのれに短剣をさしむけるような勇ましいうたである。

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