畠うつや鳥さへ啼ぬ山かげに 蕪村
畠うつや鳥さへ啼ぬ山かげに 蕪村
訳)人里をはなれた隠遁者が鍬を手に畑をたがやしている。人のすがたは見あたらない。しずかだ。まして鳥の声もきこえない。春の日ざしもはいりこめない山奥、きこえるのは鍬と土のふれあう音だけ。
蕪村の句は、実感ではなく理想の美をもとにつくられることが多い。その理想のみなもとをたどると、日本の王朝文化、そして中国の漢詩文のふたつに大別されるだろう。前者でいえば、
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな
ほととぎす平安城を筋違に
初しぐれ眉に烏帽子の雫哉
のような作があり、後者では
閻王の口や牡丹を吐んとす
(前書きに「波翻舌本吐紅蓮」。「舌根紅蓮の如し」という『白氏長慶集』の一節をもとにした)
虵を截てわたる谷路の若葉哉
(漢の高祖すなわち劉邦が、大蛇を斬って道を切り開いた故事による)
広庭のぼたんや天の一方に
(蘇東坡 前赤壁の賦の「美人を天の一方に望む」による)
という具合。そして、今回の句は漢詩文をもとにした句である。
北宋の政治家、王安石(1021〜1086)の詩に「鍾山即時」という七言絶句がある。
澗水無聲繞竹流 澗水声無く竹を繞って流る
竹西花草弄春柔 竹西に花草 春柔を弄ぶ
茅簷相對坐終日 茅簷 相い対して坐すること終日
一鳥不鳴山更幽 一鳥鳴かずして山更に幽なり
『中國詩人選集二集 王安石』 清水 茂注 より引用
このさいごの「一鳥鳴かずして山更に幽なり」を借りてものしたわけだ。
こうして比べてみると、蕪村のオリジナルは「畠うつや」の箇所だけともいえる。しかし、詩の出来としては蕪村のほうをわたしはとりたい。王安石の詩は、いくぶん音のしずけさを強調しすぎて逆にうるさい。「澗水声なく」「坐すること終日」「一鳥鳴かずして」と終始静的な描写にかたむいているので、情景にうごきがなく平凡に感じる。
その点、蕪村のは「畠うつや」という動的でかつ聴覚にうったえる動作によって、よりいっそう山の幽玄さがきわだっている。芭蕉の「しづかさや岩にしみいる蝉の声」に通ずる句といえよう。蕪村の句は動から静へ、反対に芭蕉のは静から動へとうつってゆく。動と静が絡みあい、止揚されたあらたな美がうまれている。
もっともこうした差異は、漢詩と俳句のもとめるところのちがいでもあり優劣はつけられないかもしれませんが。