君にちかふ阿蘇の煙の絶ゆるとも萬葉集の歌ほろぶとも 吉井勇
○『酒ほがひ』所収。吉井勇は『明星』出身の歌人で、与謝野晶子・寛の薫育をうけた。第一歌集の『酒ほがひ』は酒・恋・孤独といった青春のうたが奔放にみづみづしく詠まれている。
このような丈の大きいうたはそうお目にかかれません。男は女になにかをちかった。明瞭にその内容は書かれていないが、それはまちがいなく恋にまつわることで、男は女を安堵させようとしている。「阿蘇の煙が絶えようともきみを愛す」「萬葉集の歌がほろびようともきみを愛す」そんな情景が浮かびます。
二句から三句では阿蘇という広大なけしきが描かれる。熊本にひろがる一面のみどり、そこにそびえる阿蘇山からもくもくけむりがのぼっている。阿蘇山はいわずとしれた活火山です。かとおもうと、四句目でがらりと場面がかわり万葉集について詠まれる。阿蘇のおもかげがたなびいて、むかしの飛鳥や奈良の都が縹渺と想像される。前者においては空間的なひろがりが、後者においては時間的なひろがりが詠まれ、そのふたつが違和感なくかさなりあい崇高なイメージが醸しだされる。
男がちかったことはたいしたことではないのかもしれない。だが、そのあとのイメージの壮大さによってそのちかいのスケールが大きく感じられる。まあ、悪くいってしまえばおおげさなのかもしれませんが。男はおおげさなことをしゃあしゃあと言うものです。古典においてその代表例は末の松山でしょう。
君をおきてあだし心をわがもたば末の松山波も超えなむ 古今集
(あなたをさしおいて浮気心をわたしが抱くならば、末の松山を波が越えてゆくだろう。それくらいありえないことだ。おまえしかいない。)
契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは 清原元輔
(誓ったじゃないか。おたがい涙にぬれた袖をしぼりながら、末の松山を波が越えることなどありえまいと。ほかのひとを思うなどありえないと)
吉井勇のうたはこの系譜につらなるといえるでしょう。とくに後者の「契りきな」では語法的にも一句切れで、スパっといいきったあとにイメージをもちだすところが似ている。でも吉井のうたには王朝和歌につきものの嫋嫋とした女々しさがなく、大柄ですっきりとしたあじわいがあるので個人的にはこっちのほうが好きですね。