こみ合へる電車の隅にちぢこまるゆふべゆふべの我のいとしさ 石川啄木
こみ合へる電車の隅に
ちぢこまる
ゆふべゆふべの我のいとしさ
〇『一握の砂』所収。1908年に妻子を置いて単身上京した啄木は、朝日新聞に出社しつつ日々煩悶していた。貧乏、病苦、情事、社会情勢、人付き合い、そして創作の停滞。
社には病気届けをやって、一日ねてくらした 1909.05.03
きょうも休む。きょうは1日ペンをにぎっていた。“鎖門一日”を書いてはやめ、“追想”を書いてはやめ、“おもしろい男?”を書いてはやめ、“少年時の追想”を書いてやめた。それだけ予の頭が動揺していた。ついに予はペンを投げだした。そして早くねた。眠れなかったのはむろんである。 1909.05.04.
いなか!いなか!予の骨をうずむべきところはそこだ。おれは都会のはげしい生活に適していない 1909.05.16
(以上『ROMAZINIKKI』岩波文庫より引用)
こういう歌はとくに解説もいらないでしょう。名歌ではない。しかし、ともすると忘れがちな日常の哀感をさっとスケッチするのは簡単のようでむつかしい。啄木はその名手だった。創作に専念したいが出勤しなければ金は入らない。「ゆふべゆふべ」という語が毎日はたらかざるを得ない現実に疲弊してゆく男のすがたを匂わせます。「いとしい」と言う語には、不憫さといじらしさのアンビヴァレントな感情がこめられている。上の句から現実の描写がつづき、しだいに自画像があらわれ「いとしさ」を感じる。
啄木のうたは感傷的かといえばそうにちがいありませんが、そこには人間に通底する抒情が含まれている。個人的な嘆きも、しらずしらず人間の嘆きになっている。そこが啄木のおおきな特徴で、なまじマネをしようとすると単なる自慰的な感傷におちいる。かといって、玄人ぶると感情を殺しすぎてぱさぱさと干からびた歌になるか、もしくは文辞を研ぎ過ぎるあまりごてごてと厚化粧した歌になる。啄木はその両方をまぬがれている。こういう人を生得の歌人というのでしょう。
こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて死なむと思ふ
こころよき疲れなるかな
息もつかず
仕事をしたる後のこの疲れ
はたらけど
はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり
ぢつと手を見る
あたらしき背広など着て
旅をせむ
しかく今年も思ひ過ぎたる