囀に独起出るや泊客  召波

さへずりひとり起出るや泊客  召波しようは

 

〇早朝、鳥が高く鳴いている。泊めていた客の様子を見に行くと布団はもぬけの殻。
 いまごろ春の鳥にみちびかれて外をさんぽでもしているのだろうか。

 

『春泥句集』所収。まさに「春はあけぼの」といいたくなる句です。「や」と軽い疑問で受けとめることで、泊めていた客をおもいやるあるじの風雅心がかいまみえる。別の解釈として、客の寝床からがさごそと起きるもの音を主がきいている、という状況も想像できるが、「独起出るや」と疑問におもっているところをみると、やはり主より先に起きてすがたを消していると捉えたい。そのほうが句にひろがりが出る気がします。

あともうひとつ気になるのが目覚めた時間です。常識的に考えて、この句は朝のひとこまを描いてる。ただ、句集ではつぎに「春風」の題で

なであげる晝寐ひるねの顔や春の風

という句がならんでいます。なにとなく上掲の句につづいてる気もする。そうすると、客が目覚めたのは昼ということになる。ここでちょっと迷ったんですが、「囀り」はやはり朝を指している語だと判断しました。昼にも鳴かないことはないですが、句の情景と常識から朝の目覚めといちおう解しました。俳句は解釈がむずかしいなあ。

 

召波は江戸中期の俳人(1727~1771)で、蕪村の弟子。没後、子息の維駒これこまによって『春泥句集』が編纂・刊行される。序文は蕪村が記している。そこには俳句に関する師弟の問答が書かれていて興味深い。ちょっと書き抜いてみると、

 俳諧に門戸なし。只是ただこれ俳諧門といふを以テ門とす。

また、

詩家に李杜りとを貴ぶに論なし。なお元白げんぱくをすてざるが如くせよ

などなど。前者は、俳諧にはいろいろな流派があるがどれがもっとも正道か、という問いの答え。後者についてはひとつ説明がいるでしょう。李杜は盛唐の詩人李白と杜甫のこと、元白は中唐の詩人元稹げんしんと白楽天のこと。簡単にいえば、大衆的な作家や作品も軽んずるなということだろう。元稹と白楽天の作品は、クラシック音楽でいえばチャイコフスキーのような立場で、あまりにわかりやすく情にうったえてくる。なので知的なひとは軽蔑しがちだが、むやみに捨てるべきではないと蕪村は召波にさとしているのだ。バッハやベートヴェンばかりを崇拝しちゃいけないですね。

だけど、なにより心をうつのは召波の最期の場面です。

あらかじめ終焉のをさし、余をまねきて手をにぎりいわく、「うらむらくは、そうとともに流行を同じくせざることを」と。言終いいおわりて、涙潸然さんぜんとして泉下に帰しぬ。余三たびなきて曰、「わが俳諧西にしせり。我俳諧西せり」

誇張はあるかもしれない。それでもたんなる師弟関係をこえた厚情に胸をうたれます。

 

【引用】『蕪村文集』岩波文庫/藤田真一編注

 

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