水鳥の立ちの急ぎに父母に物言ず来にて今ぞ悔しき

 水鳥の立ちの急ぎに父母に物にて今ぞ悔しき  上丁有都部牛麻呂うとべのうしまろ

ミズトリノ

立ち急いだせいで

父母に

ろくに物も言わずに来てしまった

今が悔やまれる

 

万葉集巻二十。四三三七。駿河国の防人の一首。「水鳥の」は水鳥の飛び立つ様子から「立つ」の枕詞。モノイハズは「もの言はず」の約言。

大伴家持は兵部少輔という位についており、難波で防人の検閲に当たっていた。防人とは、新羅といった対外勢力に対するために筑紫や壱岐に配置された兵士のことです。任期は3年、かれらは21歳から60歳までの男子からなり、おもに東国から徴兵されました。というのも、東国の人びとは武勇に秀でていたからです。防人は、毎年二月になると1000人ずつ難波に赴き、軍団を編成して筑紫(現福岡県)へむかった。そのとき、役人として防人と接した家持はかれらに和歌を提出するように命じた。その歌が166首いまも残っていて、上掲のうたもそのうちのひとつです。

内容はたいへんわかりやすく、この望郷の念はいまのわれわれにも感動させます。それも、国家によって強制的に遠国に派遣されるのですからひとしお言葉に重みがある。「水鳥の」という語が歌全体のイメージを豊かにさせ、感傷を詩的に昇華させている。この歌では駿河ですが、どこか鄙びた田舎の風景もしぜんと感じさせ、息子と離ればなれになり家にのこされた両親の顔も思い浮かばれてきます。

防人のうたをよむと、その淳朴なうたいぶりに感動するのはもちろんですが、その一方でよくぞ書き残してくれたという家持への感謝と、そして蒐集・編集という仕事の重要性にも気づかされます。現在でも、かくれたすばらしい作品がどこかの日陰で生まれているのでしょうか。

 

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